私が、自分の生え際に、明らかな異変を感じ始めたのは、20代も後半に差し掛かった頃でした。もともと、おでこが広い方だという自覚はありましたが、ある日、風呂上がりに、濡れた髪を鏡の前でかき上げた瞬間、その光景に、私は凍りつきました。額の両サイド、いわゆる「M字」の部分が、以前よりも、明らかに、そして深く、切れ込んでいたのです。そこだけ、まるで誰かに剃られたかのように、髪の毛がなく、青白い地肌が、はっきりと見えていました。私は、血の気が引くのを感じながら、過去の自分の写真と、鏡の中の自分を、何度も見比べました。間違いありません。私の生え際は、確実に、後退している。その事実を認めざるを得ませんでした。その日から、私の苦悩の日々が始まりました。毎朝、鏡の前で、どうすればこのM字部分を隠せるかと、前髪のセットに、何十分も時間をかけるようになりました。風の強い日は、外出するのが憂鬱でした。前髪がめくれ上がり、自分の弱点が、白日の下に晒されてしまうのではないかと、常にビクビクしていました。友人との会話中も、「今、俺のおでこを見てるんじゃないか?」と、相手の視線が気になって、話に集中できません。海や、プール、温泉なんてもってのほかです。髪が濡れてしまえば、すべてが終わりだ。私の自信は、後退していく生え際と共に、日に日に、失われていきました。市販の育毛剤を、気休めに振りかけ、頭皮マッサージが良いと聞けば、必死で頭を揉みました。しかし、進行は、止まりません。そして、30歳を目前にしたある日、私は、決意しました。「もう、一人で悩むのはやめよう」。私は、震える手で、インターネットで探し出した、AGA専門クリニックの、カウンセリング予約のボタンをクリックしたのでした。それは、長いトンネルの先に、ようやく見つけた、小さな光のようでした。
私の生え際が後退し始めた日のこと